NHKスペシャル 「“冒険の共有”栗城史多の見果てぬ夢」の感想

栗城という男はあまり好きではないな。

 

Nスペは、それなりには中立に番組制作していた。

それなり、だが。

ネットに責任を押し付けて

NHKやメディアの責任を回避したいようにも見えた。

 

栗城の「冒険の共有」というコンセプトは

非常に合点がいく。

これは映像とITの融合が生み出した魅力だ。

 

早く言えば今で言うYoutuberなのだが、

栗城は00年代から活動しており

先駆者だった。

 

映像とITの融合を登山と絡めることで、

栗城は冒険の共有を進めた。

 

突然、00年代中盤からSNSにバブルが起きた。

そして同時期に現れたyoutubeによって

映像にも突然バブルが起きた。

 

しかも2019年の今になっても

それらのバブルは弾けず拡大している。

つまり栗城のコンセプトは「バブった」のである。

 

バブルを当てて先行者利益を得た栗城は、

とんでもないバブルの渦に巻き込まれた。

いつの間にか

自らが原動力ではなく

渦の原動力で動かされるようになる。

 

そして渦に飲み込まれて命を落とした。

 

バブル云々は私の意見だが

ネットの力で栗城が動かされていったという説については

Nスペや関係者も概ねそう語る。

 

栗城はSNSという巨大装置に飲み込まれたのだろう。

そのようなyoutuberの事例もちらほらある。

 

と、ここまでは栗城に起こった構造について。

んで。

やっぱり私は彼が好きになれない。

 

彼の自我が災いを招いたように見える。

 

登山の達成条件などについて小さな嘘を重ねたこと、

説明を避ける姿勢、

嫌いだと感じる。

 

芝居がかったカメラの前での行動、

山というピュアな存在に強く相反する。

 

私は富士山や地元の山しか登ったことはないし、

登山のことなんて全然解ってない。

実際どういう経済原理で

山が人とリンクしているか解ってない。

 

が、栗城の映像を見る時、

怪しい資本主義が山に絡みつこうとしている、

そういう感覚を覚えてしまうな。

 

栗城の言う「否定という壁」ってのも

マッチポンプじゃないのか。

自分が重ねた小さな嘘や、

外部とコンセンサス調整してこなかったツケ、

それを「否定という壁」に言い換えている。

それを超えるって言われても

何かおかしいぞと思う。

 

「否定という壁を超える」の根本だと思うのだが、

彼は元々練習やってたのか。

なんで登山=一発勝負みたいな

コンセプトで挑んでるのか。

 

本当のプロフェッショナルはそういう

一か八かの挑戦はしない。

プロがそれをやる時は、本当に「賭ける」時だ。

乱発はできない。

連続で一か八かとか変だ。

練習という努力のプロセスを軽視しているとしか思えない。

 

これに関して、花谷というアドバイザー役の

登山家が出演して似たことを言っていた。

 

だが花谷もちょっと変だ。

現地にいたのに、

事前に議論の積み重ねはなかったのか?

 

花谷はプロフェッショナルとして

プロセスを冷静に評価分析して

アドバイスしなかったのか?

 

で、なんで最後、

栗城が選んで結果的に命を落としたルートを

花谷は知らなかったのか?

なんで栗城は伝えず出発したのか?

なんで栗城は花谷の無線に返信しなかったのか?

 

その理由の推察。

Nスペの編集からは伝わりにくいが、

元々チームワークが取れてない印象があった。

 

というか、栗城の人望は危ういように見えた。

カメラのことで栗城がキレてたのもそう。

 

こういうところからも

栗城の人望の弱さ=登山力の無さを読み取ってしまう。

 

そういう細かなことをNスペはきちんと伝えるべきだし

花谷やスタッフにも詰めて聞き取って放送すべきだ。

花谷の物言いはあいまいすぎる。

 

栗城が死んだのは本人の責任もあるが、

メディアがゴリ押した責任もあるだろう。

 

こういうのは責任が分散するから

誰も責任はとらなくていい。

でもメディアは自発的に詰めて総括する義務があるとは思う。

Nスペの姿勢には甘さがある。

 

最後に、登山業界に対してディスる

 

レベル10でラスボス倒しに行こうとする人間を

登山業界の人達はきちんと批判すべきだ。

これ国内で素人がやらかしたら

捜索に税金使われるんだろ、と思う。

 

「お疲れ様」「夢をありがとう」みたいな締め方してる

プロの人たちが多くて苛立った。 

 

登山には一か八かみたいな風潮は、一定あるものだろう。

だが税金によるリスクヘッジは否定すべきだ。

 

栗城は海外で自費だから良いだろうが、

一般人が真似するだろう。

 

それを十分に伝える土壌を、登山業界は作ってない。

 

釣り業界が、海を汚す行為に対して

十分に警告しないのと似ている。

缶蹴りとイジメ

家の近くで子供が遊んでいた。

高鬼やろうとか言ってて、

そんなのもあったなと。

 

あれって永パ入ってゲーム成立しないのでは、と思ったが

ググると無敵時間はカウント制とのこと。

ああ、そうだった。

 

今の子供がやるのかは解らないが、

缶蹴りについて。

 

全員を捕獲とかまず無理。

複数攻撃とか、

微妙な判定でも缶を蹴り飛ばすとか、

とにかく蹴る側が有利。

 

鬼が缶を離れて人を探しに行くのもリスクが大きい。

鬼が複数いればまだマシなのだが。

うちの地域では鬼は基本的に1人だった。 

 

鬼にとっては無理ゲー。

 

缶蹴りの本質は、イジメ遊びだ。

 

最初のジャンケンでの鬼決めで

イジメの空気が流れ始める。

 

いわゆる陰キャが鬼になることを期待されていて、

リンチが始まるあの感覚を共有し出す。

  

蹴る側は徒党を組んでいるので、

自分たちに有利なように空気を持っていく。

その中でルールを細かく破る。

数の論理で無理筋を通す。 

 

鬼を追い詰めて得られる連帯感、

他では代替できない快感だ。

 

最も、缶蹴りはこうなるのを皆解っていたから

遊びとしては人気が無かった。

 

誰かがやろうと言い出して、

流れでそうなっていくあの不穏な空気は忘れられない。

 

快感を得たい一方で、倫理観もあった。

リンチを止める者が出てくる。

あの弱者救済感覚は、

社会システムに通じるところがある。

 

人間にはそういう共栄精神が根底にあるのだろう。

 

ただ個人差が大きく、

徹底的にイジメ抜く主義の者も結構いた。

 

子供の世界はえげつない。

缶蹴りで泣いた友達を何人も見た。

 

あの弱者救済意識の個人差はなんなんだろう。

家の裕福さとかと相関あるのか。

 

センター試験の国語で2009年に缶蹴りの内容が出題されたが、

的外れだなと思った。

 

管理社会側の鬼に蹴りをいれる、という要旨。

 

真逆。

 

この栗原彬という作者、やったことあるのか。

どう考えても、蹴る側=管理社会側だ。

 

管理社会に迷い込んだ弱者(鬼)を

集団で蹴り飛ばす。

 

弱者をボコってリンチを楽しむ。

缶蹴りはそういう遊び。

 

まあ缶蹴りもルールで全く違う遊びに変わるんだけど。

鬼の数を増やすとか、

3回缶を蹴ったら鬼交代とか。

 

社会も同じ。

ルールというのは大切なのだな。

菌扱いについて

いじめ記した君、生きて欲しかった ミュージシャンにメール残し、高校生は命を絶った:朝日新聞デジタル

 

なぜ子供は「菌」概念を持ち、のけ者を作るのだろうか。

 

私も子供の頃、こういう菌の考えを持っていた。

触ったら「伝染る」とか、ミー、バリアとかそういうの。

地球全体バリアとか毎日言ってた。

 

あれはなんだったんだろう。

 

「触られる」ことにすごく敏感だった。

疎外した相手から触られると、

本当に何かが伝染ったような気がした。

 

ミー、バリアも難しい。

これらの意味は、要は「無敵」ということ。

 

安全地帯への欲求が発露するのだと思う。

「安全に包摂されたい」感覚があった。

 

誰かを疎外することで安心感を得ていたのか。

 

子供は内的に、異種性への恐怖を持っているようだ。

DNAが獲得した生存戦略だろうか。

 

子供特有の、なんらかの未分化感情と言えそう。

 

個人ブログなので突っ込んで言うが、

私個人、当時の感覚を思い出せば

障害者に対し、こうした差別意識を強く感じていた。

  

特に物理的に「触る」ことに恐怖を抱いていた。

 

年と共に異種性への恐怖は消える。

 

私も、大人になると菌扱いしたがる感覚や

差別意識は消えていった。

 

現在、私は極端に差別意識が「無い」タイプの人間である。

 

だが、残念なことに

差別意識がそのまま固着する大人は多い。 

 

昔勉強した教育心理学の一般的な教科書には

こういうテーマについては書かれていなかったな。

 

※コロナ流行に際して続きの記事を書いた。

飛び降り自殺、キャッチの無謀さ

救命:4階から中2飛び降り、対応の女性教諭に当たりけが - 毎日新聞

 

こうした話は感情論で世論が動く。

現場も同じ。

きちんと社会の誰かが否定しないと。

毎日の見出しに「救命」なんて書いてあるが、冗談じゃない。 

 

飛び降りと受け止めというシチュエーションは

世界各地で一定発生している。

高い確率で受け止める側が死亡する。

 

今回の事件も、ドラマチックな内容から

色んなメディアで流れて

ネットは美談として反応が起きている。

 

私は違うと思う。

一定の起こりうる事態であり、

受ける側が死亡する可能性が高いのなら、

ちゃんと「受け止めるべきでない」と社会が警告すべきだ。

メディアはそういう報道姿勢は採っていない。

 

飛び降りが普通に動画で上がる時代になったが、

受け止めるのは無謀である。

 

落下エネルギーは飛び降りる高度に寄るのだろうが、

こんなもん人間が計算できる訳がない。

人は動体のエネルギーを過小評価する

  

閲覧注意。いかに無謀かが解る。

https://www.youtube.com/watch?v=MCoVY1I6M2A

考えるポイントは「計算が狂う」という部分だ。

人ほどの重量を受け止められると脳は誤認してしまう。

昔の教育は選抜、今の教育は全数救済

昔の教育ってのは、選抜主義。

精神論でぶっこんで行って、ダメならダメ、

生存したならオーケーみたいな。

 

今は違う。全員を救済するという前提。

 

発達障害の診断の増加とかこういう筋の話。

体罰論とかも。

前提が遷移してるから基準も遷移する。

 

昔の選抜主義で、ダメだった人はどうなったか?

 

戦前は命を落とすことなんてザラだった。

だから昔の人ってのは、命がけの精神論を持っている。

 

戦後の昭和の負け組はどうか?

死ぬことは激減した。

で、ちゃんと社会のどこかで生存している。

 

教育論で考えたときに

そういう生き方って、失敗とかいう話ではないよな。

 

全数救済の純度が高まっていく。

ネットにそういう影響は今後表出していくのかも。

ほにゃらら問題

「〇〇に当てはまる言葉を選べ。」

 

教育では〇〇、△△、「 」、__など

穴埋めがしょっちゅう出てくる。

 

これは「なになに」とか「ほにゃらら」とか言われてたりする。

英語だとblablabla、blank。

 

これは日本語の欠陥である気がする。

「ほにゃらら」という言葉自体長くて言いにくくピンと来ない。

「なになに」のほうが汎用的だろうか。

 

( )「 」などカッコ系は「かっこ」で良いだろう。

〇〇なら「まるまる」と読めるが、これはイマイチ。

__に至っては簡単な読み方が存在しない。

アンダーラインとかアンダーバーとかになってしまう。

読まない、という方法も一応ある。

 

上記がどう問題なのか、詳細の説明は割愛するが

教育界あげて解決してほしいものだ。

このブログの理念、市民の野良情報の力について

この弱小ブログにも一応、社会的理念がある。

少しでもいいから事実に基づいた情報をウェブに送り出すことだ。

 

市民のそうした力の結集は、少しずつ社会を変える。

 

日本語のウェブには、そうした市民の野良情報が多く集まっている。

そうした力が社会をリアルな部分で下支えしている。

これはfinalvent氏という私の心の師から学んだ。

 

だが教育というジャンルはあまり金にならず、

野良ブログに情報を上げてもマネタイズは難しい。

金が動きにくいジャンルはやっぱ情報の動きが鈍い。

  

ネトウヨネトサヨはこういう方向で活動してくれればな。

社会は一気に動き出すぞ。