教育実習でパワハラやセクハラに悩む学生へ

この時期、ハラスメントについての記事へのアクセスが毎年増える。

 

教育実習でパワハラやセクハラを受けている学生が

検索して訪問しているっぽい。

 

ハラスメントで悩んでいる学生へ。

 

①とにかく多くの教員に相談。

出来れば3人以上、もっと多いほうがいい。

そして必ず管理職や実習責任者にも相談すること。

 

②ハラスメントをやめるよう、加害者に直接言うこと。

 

以上2点が重要。

 

私も教育実習でハラスメント被害にあった。

 

というか、私のケースはパワハラというより

名誉毀損をはじめとした刑事犯罪に当たると思っている。

 

警察を入れて解決するべき問題だった。

結局、そこまでは詰めなかったが。下記に紹介。 

  

 

指導教員がとにかく無能で、

実習の序盤からトラブルまみれだった。

 

この指導教員は、率直に言えば、

極端に仕事ができない

精神不安定な中年女性だった。

 

基本的な事務処理が遅い。

その遅さが尋常でなく、仕事が進まない。

 

 講師のキャリア10年を経て本採用されたらしい。

どうして採用されたのか。

 

おそらく教採合格に1点振りで

社会に食らいついてきた、

そんな印象があった。

 

応用が全く効かない。

新しい仕事が割り当てられると破綻してしまう。

 

またこの指導教員、4月に異動してきて2ヶ月も経たないのに

生徒達とかなりのトラブルを抱えていた。

 

そして、一目見て解るほど体調が悪い。

授業に穴を空けて、保健室で寝たりする。

 

一体どういう論理で指導教員になったのか。

 

私は困惑していた。

 

※後からある教員が教えてくれたのだが、

別の教員が指導教員になる予定だった。

しかし部活の大会で計画が変わったらしい。

 

全く実習が進まない中、決定的事件が起きる。

 

職員室で打ち合わせの途中、

指導教員が精神的に崩れ始め

最終的に大騒ぎする事件を起こす。

 

出口の見えない指導教員としての役割に嫌気がさして

モチベーションが枯渇、

職員室のど真ん中でパニックを起こしたのだ。

 

その後から私に関するデマが流れ始めた。

 

この指導教員、それまでのミスやパニックの挽回策として

私に関するデマを流しまくったようだ。

 

また、連絡を怠る、必要な情報を伝えない等、

露骨に実習の妨害をやるようになった。

 

実習期間は短い。

右も左も分からない中、いきなりトラブルに巻き込まれた。

私も相当焦っていた。

 

 

残り約2週間で、

 

1.指導教員の妨害を避け

2.デマを払拭し

3.実習を正常に遂行する

 

という無理難題に迫られた。

 

 

結果的には、上述の相談しまくるという方法で解決する。

  

 

まず1人の教員への相談で状況が変わった。

 

指導教員が職員室でパニックを起こした直後、

同じ担当科目の教員(上述の指導教員になる予定だった教員)

に相談した。

 

この教員、様々なデマを吹き込まれていたようで、

私は心底頭に来た。 

 

翌日、指導教員から

「私の悪口言ってたやろ」

「トラブルを誰にも広めるな」

と強要を受けた。

 

この指導教員、話が広まることに

とにかくイラついていた。

 

効いているな、と思った。

 

翌日別の教員に相談した。

 

その教員もデマを信じていたようで

頭に来たのだが、

この相談も効いた。

 

この2人目の教員が別の教員に相談をしたようだ。

 

それを聞きつけた主幹教諭が

慌てて私に面談を申し入れた。

 

3人目の相談である。

 

この主幹教諭はいきなり

「管理職の耳に入ったらどうする」

「実習トラブルに関して話を広めるな」

と、B級学園ドラマにありそうな

ゲスな強要をしてきた。

 

また、

「あいつ(2人目に相談した教員)は講師だろう」

などとグレーなことも言い出す始末。  

 

しかし相談が効いていることの裏返しだ。

 

この主幹教諭は明らかに「指導教員側」だったが、

取り込めると思った。

 

事実関係と指導教員のまずさを徹底的に報告。

 

この時から主幹教諭は「こちら寄り」になった。

 

権限もあったので、大きな変化が起きた。

 

この後、打ち合わせで職員室を尋ねると、

この主幹教諭と指導教員が

言い争っているのが見えた。

 

焦って一旦退出。

 

もう一度尋ねると衝撃の光景が飛び込んできた。

 

指導教員が椅子に力なく腰掛け、

宙を見つめ口を空けたまま

虚ろな視線で動かなくなっていた。

 

一言、「以後、指導は文書で行う」と呟いたのだ。

 

どうも主幹教諭から指導教員に、

「口頭指導禁止」指示があったらしい。

 

翌日、再び主幹教諭と面談があった。

 

「問題の指導教員は精神不安定である」と、率直に告げられた。

 次に「指導教員を変更するか」と聞かれた。

 

しかし変更は必要ないと伝えた。

 

本当に文書指導で実習が進むようになり、

ほぼ筆談という状況。

 

指導教員があまりに惨めに思えたし、

指導教員の評価を決定的に失墜させてしまうのは違うと思った。

  

※しかし最終週に仕返しのような

地味な嫌がらせがいくつかあったので、

変更しておけば良かったと後から思った。

 

別の古株教員とも相談したこともあった。

この教員も直接の介入をしてくれた。

 

この教員も実習に一定の権限があったので、

強いプレッシャーになったようだ。

 

ここまでで実習期間である3週間の

半分を消耗した。

体力も気力も消耗し尽くした。

 

そうしてやっと実習が正常に進むようになったのである。

 

 

実習は短い。 

トラブルが起きると本当にボロボロになる。

 

続けられたのは、私は母校が好きだったからだ。

 

その地を踏むと、無限に気力が湧いてきた。

 

後輩である生徒たちと接すると、

どんな無理難題でも解決する気力に満たされた。

 

普通の職場だと折れてたな。

 

しかし一方で、こうした

「無限に気力が湧いてくる」感覚に頼るのは

労働条件としては間違っている。

 

持続可能でない。

過労死する考え方だ。

あくまでも一時的な解決方法とするのが正解である。

 

冒頭に書いたように、まず相談が重要なのだ。

 

 

さて、相談しまくることの重要性について書いてきた。

 

相談の目的は、もちろん問題の解決なのだが、

まず目指すべきはトラブルの共有だ。

 

教員の社会ってのは、狭い社会である。

 

職員室には様々な人間関係の濃淡がある。

下手を打つとジメジメした形で話が広まりやすい。

 

あれはあれで嫌な社会だ。

 

だからトラブルの噂などは、

教員にとっては非常に苦しい。

 

逆に、この指導教員がなぜ私のデマを流したか、

についてもここから説明できる。

 

自らが職員室でパニックを起こし

公然と大騒ぎした「事件」について、

なんらかの手段で回収したかったのだろう。

 

また、職員室の人間関係の中に

情報戦でデマを流してしまえば優位になる

と思ったのだろう。

 

だから衝動的にやったのだと予想する。

 

あまりに安易だとは思うが。

 

ハラスメントに悩んでいる学生は

とにかく沢山の教員に相談しよう

キーワードはトラブルの共有だ。

 

私は実習中はしなかったが、

管理職への相談も重要だと思われる。

 

※私のケースでは、実習終了後にデマの被害等を報告し、

教頭や校長と面談した。

しかし本来は実習中にやるべきだった。 

 

ただし、本当に自分に落ち度がある場合は

きちんと切り分けること。

 

最後に、冒頭に上げた直接言うこと

これも重要だ。

 

結局ハラスメントというのは、

「精神不安の発露」であることが多い。

 

やっている本人こそが

精神不安とか神経症の中にいるケースが多い。

 

だから被害者から積極的に

拒否のリアクションを見せないと

ハラスメントの継続で精神バランスをとりにいってしまう。

 

ハラスメントをする心理というのは

これらの事情を全て織り込んでいて、

はじめから「言い返してこない」「ターゲット」を探す。

 

だからストレートに言い返そう

 

私のケースでは、周りに相談しまくったので

そういう一般的なハラスメント≒いじめの状況には陥らず

多数の教員を巻き込んだ事態に移行できた。

 

直接言うってのも、かなり言ったのだが

後から思うと足りていなかった。

 

ただ理由があった。

 

指導教員の精神不安を憂慮した、

上述の主幹教諭から

「何も反論せずYesとだけ言っておけ」

「(指導教員が)精神不安になってしまう」

「何かあったら全て報告して」

と何度も要請があったのだ。

 

つまり直接この指導教員に言うと

精神不安が悪化するから、こっちに言ってこいと。

 

それ含めて、結局、指導教員に「口頭指導禁止」を

言い渡したのだろうが

やはりこういう方針はいびつだ。

 

はっきりと直接言うのが一番良い。

 

そして、こういうストレートにものを言える資質

教員に必要な資質であると考えられる。

 

もうすこし突っ込んでアドバイスすると、

学生である貴方は「ふるいにかけられている」

と考えたほうがいい。

 

こうした状況に泣き寝入りせず、

不正義に対し実直に反論できる能力

 

職能として、貴方がそういう言語を持っていて、

正確に言語を運用できる力があるか。

 

そういう対応ができなければ、

教員になる資質が欠けていると言わざるを得ない。

 

例えば、いじめ問題の解決に必要なのは、

場の空気を切り裂いて語る勇気だ。

 

 

セクハラやパワハラは懲戒処分の対象である。

 

特にセクハラは相当重い処分が出ることもある。

一方でパワハラは線引きがあいまいで

処分が出ても軽微である。

 

しっかり被害を周りに伝えて共有しよう。

そしてハラスメントをやめるように加害者に直接伝えよう。

 

そうしないとハラスメント被害は拡大し、

実習を途中でドロップアウトすることにも為りかねない。

Nスペ シリーズ 子どもの“声なき声” 第2回  “不登校” 44万人の衝撃

 

 

 

不可解な構成だった。

 

「個性を大切に」「これから一層充実させていく」とか。

お決まりの教育オチ。

 

重要なのは、Nスペが予算を突っ込んだ

中学校の現場に1年密着した部分。

 

しかし、番組内で扱われる時間が少ない。

伝わらない。

 

別会場のトークライブと並行して番組が進行。

時間がなくカオス。

 

結果、薄っぺらい内容になっている。

 

あとなんで平田オリザなんだ。

どういうポジションの参加なのか。

 

女優の人も出演の狙いが解らない。

 

教育の専門家もっと呼べよ、と思う。

 

あと、不登校新聞。

NHKに食い込んでるんだなと思った。

 

私はこのメディア好きじゃない。

都合のいいスキーム使うから。

 

責任についての語りを排除し、

その出口を個性の尊重論に向ける。

 

Nスペも今回、その典型スキームで番組展開していた。

それは楽だよ。

 

責任論をまず回避し、個に応じた教育に解決を求める。

もちろん1つの教育論、教育スタイルである。

 

しかし個に応じた教育には金が掛かる。

金についての語りが自動的に責任論になる。

 

だから個性の重視と金の問題は

セットで語る必要がある。

 

今回のNスペは全く金の問題に触れておらず、

気持ち悪いと思った。

 

上澄みだけ掠め取っていく

点数稼ぎのお利口さんが好む教育論。

 

そんな番組作ってどうする。

 

唯一、不登校を経験している子供が

ラインで金について語っていたのがチラっと見えた。

 

教育は舐められている。

すき家、くら寿司、ビッグエコーの炎上と教育

www.youtube.com

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くら寿司は刑事・民事で告訴する方針を発表。

抑止はこれしかないのではないかな。

損害賠償請求は手加減するだろう。

 

教育について。

 

なぜこのようなことが起きるか?

 

高校生~大学生ぐらいの年齢で働くということ、

これは社会に初めて出るということ。

 

店員側、として社会に立つあの感覚は不思議だったな。

自分に大きな自信が生まれた。

 

一方で、「自分の裁量で客にサービスを提供する」

という未知の感覚に遭遇する。

 

これって小さな権力なのだ。

初めて社会権力を手にする瞬間。

 

また社会の裏側を知る、という感覚にも遭遇する。

店舗のバックヤードは、

初めて遭遇する社会の裏側なのだ。

 

自分の裁量でサービスを提供できる。

つまり、不正まで行える。

しかも裏側にいるからバレない。

 

あの年齢ってのは、

こうした権力に初めて遭遇する。

 

そして社会にインパクトを与えうる

裁量の範囲について、

自由意志で決定する。

というか、決定に迫られる。

 

炎上動画の件は権力の暴走、

裁量の暴走、

自由意志の暴走なのだ。

 

で、暴走の理由はパターン化していて、

要は権力の誇示と内輪のウケ狙い。

SNSはその加速装置。

 

あの年齢ってのはとにかく面白いことをやって

友人から称賛されたいのだ。

そういう共同幻想に強く拘束されている。

 

ウケる手段として、

また権力の誇示として、

社会への小さな反撃として、

手っ取り早いのが迷惑行為&SNSだ。

 

難しいのは、

この迷惑行為、つまりドーピング使用は

個人の歯止めの掛かり方で決まる。

 

そこはなんというか、個人差が大きい。

正直よく解ってない。

 

歯止めの掛かり方は、良心の個人差に依存する。

 

なぜ良心の個人差が出るのか、よくわからない。

IQと親の愛情量がキーかな、と考える。

 

良心は内的な歯止めである。

刑事・民事での告訴は外的な歯止めだろうな。

 

フェミと教育

ironna.jp

 

ろくでなし子の意見。

彼女は常に別視点だから

話がややこしくなるのだが、

解りやすくなったりもする。

 

ネトフェミってのは

要は、「男へのトラウマ」のリアクションから

話が始まっている。

 

つまり思想の内的なドライブは

「男性性の否定」に軸を持つ。

 

個人的なトラウマに抗うエネルギーが出発点だ。 

 

そこに軸があるから、

学問なり、フェミ著名人なり、歴史なりで

基礎理論を設定し、権威付けしても

あくまでも後付けなのだ。 

 

コンセンサスを伴った基礎論理は

実質持たない。

 

個人的なトラウマの記憶と

動物的な反射現象が出発点だから。

 

一人一派という謎理論はこうして出来上がる。

 

実際の現場ではどうか。

 

ツイフェミは個々のフィールドで

空気感を合わせていく。

現場ごとのゲリラ戦が主体だ。

 

いわば、集合分離を繰り返して

その場ルールで適宜コンセンサス形成している。

 

再度確認するが、共通軸は基礎理論ではなく

トラウマへのリアクションだ。

 

 

さて、この内部構造は迷路になっている。

 

①トラウマからのリアクションが衝動のドライブを生む

②ネットで騒いで衝動のガス抜き

以下ループ。

  

出口は1つ。

「異性に愛される」という

成功体験の積み重ねにだけに出口がある。

 

だが、①と②はどんどん異性を遠ざける。

迷路の奥にはまり、

出口の光が霞んでいく。

 

ここから教育について。

 

彼ら彼女らは

ゾンビ的に布教活動をやる。

誘い込んだ成功体験が

トラウマの傷を舐めるから。

 

この構造に子供を近づけるべきでない。

怖い話だが、

この迷路に子供を引きずりこんでも

犯罪にならない。

 

毒親ってのも似ていて、

このゾンビスキームで

子供を道連れにすることを試みる。

それが彼ら彼女らの癒やしだから。

 

ツイフェミも毒親も、

遠い過去の苦しい記憶を

誰かに追体験してほしいのだ。

 

我々はゾンビ化した

ツイフェミ達から

次の世代を守らなければならない。

持続可能な社会のために。

 

それは我々が大人として

愛をどれだけ語れるか、

という文学的な問題だろう。

 

性愛を含めて、

私はどれだけ社会に向けて

愛を語ることができるか。

NHKスペシャル 「“冒険の共有”栗城史多の見果てぬ夢」の感想

栗城という男はあまり好きではないな。

 

Nスペは、それなりには中立に番組制作していた。

それなり、だが。

ネットに責任を押し付けて

NHKやメディアの責任を回避したいようにも見えた。

 

栗城の「冒険の共有」というコンセプトは

非常に合点がいく。

これは映像とITの融合が生み出した魅力だ。

 

早く言えば今で言うYoutuberなのだが、

栗城は00年代から活動しており

先駆者だった。

 

映像とITの融合を登山と絡めることで、

栗城は冒険の共有を進めた。

 

突然、00年代中盤からSNSにバブルが起きた。

そして同時期に現れたyoutubeによって

映像にも突然バブルが起きた。

 

しかも2019年の今になっても

それらのバブルは弾けず拡大している。

つまり栗城のコンセプトは「バブった」のである。

 

バブルを当てて先行者利益を得た栗城は、

とんでもないバブルの渦に巻き込まれた。

いつの間にか

自らが原動力ではなく

渦の原動力で動かされるようになる。

 

そして渦に飲み込まれて命を落とした。

 

バブル云々は私の意見だが

ネットの力で栗城が動かされていったという説については

Nスペや関係者も概ねそう語る。

 

栗城はSNSという巨大装置に飲み込まれたのだろう。

そのようなyoutuberの事例もちらほらある。

 

と、ここまでは栗城に起こった構造について。

んで。

やっぱり私は彼が好きになれない。

 

彼の自我が災いを招いたように見える。

 

登山の達成条件などについて小さな嘘を重ねたこと、

説明を避ける姿勢、

嫌いだと感じる。

 

芝居がかったカメラの前での行動、

山というピュアな存在に強く相反する。

 

私は富士山や地元の山しか登ったことはないし、

登山のことなんて全然解ってない。

実際どういう経済原理で

山が人とリンクしているか解ってない。

 

が、栗城の映像を見る時、

怪しい資本主義が山に絡みつこうとしている、

そういう感覚を覚えてしまうな。

 

栗城の言う「否定という壁」ってのも

マッチポンプじゃないのか。

自分が重ねた小さな嘘や、

外部とコンセンサス調整してこなかったツケ、

それを「否定という壁」に言い換えている。

それを超えるって言われても

何かおかしいぞと思う。

 

「否定という壁を超える」の根本だと思うのだが、

彼は元々練習やってたのか。

なんで登山=一発勝負みたいな

コンセプトで挑んでるのか。

 

本当のプロフェッショナルはそういう

一か八かの挑戦はしない。

プロがそれをやる時は、本当に「賭ける」時だ。

乱発はできない。

連続で一か八かとか変だ。

練習という努力のプロセスを軽視しているとしか思えない。

 

これに関して、花谷というアドバイザー役の

登山家が出演して似たことを言っていた。

 

だが花谷もちょっと変だ。

現地にいたのに、

事前に議論の積み重ねはなかったのか?

 

花谷はプロフェッショナルとして

プロセスを冷静に評価分析して

アドバイスしなかったのか?

 

で、なんで最後、

栗城が選んで結果的に命を落としたルートを

花谷は知らなかったのか?

なんで栗城は伝えず出発したのか?

なんで栗城は花谷の無線に返信しなかったのか?

 

その理由の推察。

Nスペの編集からは伝わりにくいが、

元々チームワークが取れてない印象があった。

 

というか、栗城の人望は危ういように見えた。

カメラのことで栗城がキレてたのもそう。

 

こういうところからも

栗城の人望の弱さ=登山力の無さを読み取ってしまう。

 

そういう細かなことをNスペはきちんと伝えるべきだし

花谷やスタッフにも詰めて聞き取って放送すべきだ。

花谷の物言いはあいまいすぎる。

 

栗城が死んだのは本人の責任もあるが、

メディアがゴリ押した責任もあるだろう。

 

こういうのは責任が分散するから

誰も責任はとらなくていい。

でもメディアは自発的に詰めて総括する義務があるとは思う。

Nスペの姿勢には甘さがある。

 

最後に、登山業界に対してディスる

 

レベル10でラスボス倒しに行こうとする人間を

登山業界の人達はきちんと批判すべきだ。

これ国内で素人がやらかしたら

捜索に税金使われるんだろ、と思う。

 

「お疲れ様」「夢をありがとう」みたいな締め方してる

プロの人たちが多くて苛立った。 

 

登山には一か八かみたいな風潮は、一定あるものだろう。

だが税金によるリスクヘッジは否定すべきだ。

 

栗城は海外で自費だから良いだろうが、

一般人が真似するだろう。

 

それを十分に伝える土壌を、登山業界は作ってない。

 

釣り業界が、海を汚す行為に対して

十分に警告しないのと似ている。

缶蹴りとイジメ

家の近くで子供が遊んでいた。

高鬼やろうとか言ってて、

そんなのもあったなと。

 

あれって永パ入ってゲーム成立しないのでは、と思ったが

ググると無敵時間はカウント制とのこと。

ああ、そうだった。

 

今の子供がやるのかは解らないが、

缶蹴りについて。

 

全員を捕獲とかまず無理。

複数攻撃とか、

微妙な判定でも缶を蹴り飛ばすとか、

とにかく蹴る側が有利。

 

鬼が缶を離れて人を探しに行くのもリスクが大きい。

鬼が複数いればまだマシなのだが。

うちの地域では鬼は基本的に1人だった。 

 

鬼にとっては無理ゲー。

 

缶蹴りの本質は、イジメ遊びだ。

 

最初のジャンケンでの鬼決めで

イジメの空気が流れ始める。

 

いわゆる陰キャが鬼になることを期待されていて、

リンチが始まるあの感覚を共有し出す。

  

蹴る側は徒党を組んでいるので、

自分たちに有利なように空気を持っていく。

その中でルールを細かく破る。

数の論理で無理筋を通す。 

 

鬼を追い詰めて得られる連帯感、

他では代替できない快感だ。

 

最も、缶蹴りはこうなるのを皆解っていたから

遊びとしては人気が無かった。

 

誰かがやろうと言い出して、

流れでそうなっていくあの不穏な空気は忘れられない。

 

快感を得たい一方で、倫理観もあった。

リンチを止める者が出てくる。

あの弱者救済感覚は、

社会システムに通じるところがある。

 

人間にはそういう共栄精神が根底にあるのだろう。

 

ただ個人差が大きく、

徹底的にイジメ抜く主義の者も結構いた。

 

子供の世界はえげつない。

缶蹴りで泣いた友達を何人も見た。

 

あの弱者救済意識の個人差はなんなんだろう。

家の裕福さとかと相関あるのか。

 

センター試験の国語で2009年に缶蹴りの内容が出題されたが、

的外れだなと思った。

 

管理社会側の鬼に蹴りをいれる、という要旨。

 

真逆。

 

この栗原彬という作者、やったことあるのか。

どう考えても、蹴る側=管理社会側だ。

 

管理社会に迷い込んだ弱者(鬼)を

集団で蹴り飛ばす。

 

弱者をボコってリンチを楽しむ。

缶蹴りはそういう遊び。

 

まあ缶蹴りもルールで全く違う遊びに変わるんだけど。

鬼の数を増やすとか、

3回缶を蹴ったら鬼交代とか。

 

社会も同じ。

ルールというのは大切なのだな。

菌扱いについて

いじめ記した君、生きて欲しかった ミュージシャンにメール残し、高校生は命を絶った:朝日新聞デジタル

 

なぜ子供は「菌」概念を持ち、のけ者を作るのだろうか。

 

私も子供の頃、こういう菌の考えを持っていた。

触ったら「伝染る」とか、ミー、バリアとかそういうの。

地球全体バリアとか毎日言ってた。

 

あれはなんだったんだろう。

 

「触られる」ことにすごく敏感だった。

疎外した相手から触られると、

本当に何かが伝染ったような気がした。

 

ミー、バリアも難しい。

これらの意味は、要は「無敵」ということ。

 

安全地帯への欲求が発露するのだと思う。

「安全に包摂されたい」感覚があった。

 

誰かを疎外することで安心感を得ていたのか。

 

子供は内的に、異種性への恐怖を持っているようだ。

DNAが獲得した生存戦略だろうか。

 

子供特有の、なんらかの未分化感情と言えそう。

 

個人ブログなので突っ込んで言うが、

私個人、当時の感覚を思い出せば

障害者に対し、こうした差別意識を強く感じていた。

  

特に物理的に「触る」ことに恐怖を抱いていた。

 

年と共に異種性への恐怖は消える。

 

私も、大人になると菌扱いしたがる感覚や

差別意識は消えていった。

 

現在、私は極端に差別意識が「無い」タイプの人間である。

 

だが、残念なことに

差別意識がそのまま固着する大人は多い。 

 

昔勉強した教育心理学の一般的な教科書には

こういうテーマについては書かれていなかったな。

 

※コロナ流行に際して続きの記事を書いた。