不信を抱えた人は最悪教師物語を求めるようになり、その構築に情報の空白が狙われる
教育行政の大きな問題は、事後で情報が錯綜すること。
人の間に色んな噂が飛び交う。
学校や教委、大学やメディアや個人とかいろんなとこが情報を小出しにする。
困ったことにそれらが一定のエネルギーを持ち人に影響する。
教育は皆が考えるものだから。
そして隙間に恣意が流れ込み教育不信が増幅する。
例えば大川小学校の件でネットをウォッチすると、
学校否定派の意識は隠蔽以外に、
14:46~15:37頃(地震から津波到達)の教職員の行動によく向けられている。
1次ソースが曖昧で恣意的な方向に流れやすい箇所。
ここでの感情的学校否定派の典型の教師像は
① ぼーっとしていた
② 権力闘争をはじめた
③ 子供は山に向かおうと泣いていた
というもの。
いずれも元となる別の証言等あり。
それが膨らんでこうなってしまうようだ。
メモを処分した教委による隠蔽疑惑の相乗効果もある。
例:
① 当時津波を心配する人が少なかった
→ 教師がぼーっとしていた
→ 何もせず談笑していた
② 言い争いを聞いたという証言
→ 権力闘争をはじめた
→ 一部は言うことを聞かずに逃げた、それが生き残りの数人
③ 子供は山に向かおうと泣いていた
→ 羽交い締めで引きずり下ろした
こういうふうに噂が膨らんでいく傾向がある。
学校不信は、教師のミスを期待する方向にまで
人を変えてしまうように思う。
これは人の不幸を願うスキームに似ている。
不信を抱えた人の無意識は、悪の教師物語を構築しようとする。
そこで、情報の空白部分、錯綜部分が狙われる。
人は空白部分に自分の物語を立ててしまう。
教育行政は情報の空白を作ってはならない。
情報の空白は社会通念上や行政上、
OKというか、イーブン、しかたないみたいに扱われる。
しかし不信を抱え込みやすい教育行政ではそうならない。
マイナスになるのだ。
一応報告書はあるが、
http://www.e-riss.co.jp/oic/_src/sc541/8E968EC08FEE95F182C682E882DC82C682DF.pdf
きちんとわかりやすく、簡潔に、空白を作らないように、
アクセスしやすい形で、統合的に、いつでも参照できるような
情報を提示する仕組みが必要。
それが不信解決の手がかりになるはず。
ばらばらになってしまった意識を
社会にとって有意義な方へ向けること。