報復心と教育と共産主義
報復心には特徴がある。
・個人差が大きい
・小さな出来事に非常に大きな報復心を燃やす人が一定いる
・筋違いの意識が乗りやすい
・相手も報復心を持っていることから、報復は連鎖的である
まとめると、とにかく「連鎖的」で「相乗的」なのだ。
ヤフオクで評価を真面目に蓄積していると
この相乗性に物凄い敏感になる。
・いったん報復合戦になると、相乗性から後に引き返せない
・入り口の時点で相乗性に気づきにくい
ということが言える。
報復合戦の後は関係が破綻する。
しかし利害関係から人間関係が継続することも多い。
そのような時、
・報復合戦を続行しながら、ミニマムな、法ベースの関係になる
・闘争スキームに入っていく
といった事態が起こる。
このような関係では教育に1番必要な
発展的創造は不可能になる。
思うのは、教育において
あまりにこういう闘争スキームが多すぎたということだ。
生徒と教員の関係はもちろん、
教育周り全般に、報復合戦→関係破綻→闘争スキームが多すぎる。
ネット以前はこういう関係がどこでも多かった。
社会が未成熟だったのでこれは仕方ない。
ここから個人的な意見の濃度が増すが、
過去、教育に共産勢力が入りすぎたのだと思う。
個人的には共産主義に理解があるほうだし、
教育と共産主義の親和性も理解できる。
しかし、昔の左翼は闘争スキームを使いすぎなのだ。
昔の左翼は自分に酔っている。
腹腹時計の冒頭に、左翼が自戒として書いたであろう
「左翼的ないきがり」という一言がそれだ。
彼らは報復心の相乗性の末に、
酔いながら闘争スキームを教育に展開したフシがある。
彼らの中に、本気で教育を考えた人間がどのくらいいたんだろう。
闘争スキーム下の関係性で、
本気の創造的な教育が展開できるはずがない。
人間は卑怯だから、報復心を抱えながら関係性を続行しなければならないと、
ミニマムかつニュートラルに関係を保っている呈で振る舞う。
続くはずがない。
教育に必要な指導は別物であるから、
分けて考えることが可能とか建前を言い出す。
これもできるはずがない。
つい先日、根津公子というそっち系の人の文章を偶然読んだ。
停職を受けまくりながら教員を続けた人。
次はこの人についての批判。