アルバイトと教育という矛盾について
時給1000円で月に100時間働いて10万円もらうより、100時間本気で何かの能力磨くか学習したらそれ以上稼げる自分くらいは育つ。それが毎月続いたら一年後には能力も12倍だからな、1200時間バイトするより1200時間成長する方が圧倒的に効率が良い!と決めてから15年やり続けたらなかなかの成果が出た!
— 武井壮 (@sosotakei) 2018年3月3日
これって教育の核心みたいな問題なのだが、
どうもきちんと総括されない。
公教育側からすればバイトは暗黙的にやむなしみたいになっている。
公教育は単純労働者の道に進むことをある程度折り込んでいる。
そりゃそうだ。公教育は万人に行われるものだから。
この点、単純労働者化からの脱却という教育の現実的目的と乖離してて
ダブスタな領域があったりする。
雇用側はうまくそのサヤを抜いてきたのが社会の現実だ。
これはメディアを始めとした資本主義側もグルなので、
落とし所は「バイトも教育だ」みたいな論理になっている。
「バイトは社会」「バイトは自立」みたいな謎理論にまで踏み出すことも普通だ。
現実路線=金が必要という視点では、バイト側を批判する動機がまず無い。
個人の経済的問題や、洗脳とかも効いて落とし所は決まっているはずだった。
しかし面白いことに、この10年ぐらいでアルバイト害悪説を
パブリックにマジレスする人が増えている気がする。
上の武井壮のツイートもそうだ。
いくつか論理を挟まないといけない話なので、
脊髄反射組が突撃して炎上するのがセオリーだろう。
アルバイト要員の不足がよく言われているが、
これは少子化だけの問題なのかな。
バイト害悪説の支持方面からの圧力だと面白い。
このあたりの実際的な動きの調査とかあったら見てみたい。
インターネットはマジレス文化を加速させる。
パブリックに発言することへのスプレッドが極端に解消されだすと、
人間というのはマジレスを放言したくなるのだろう。
教育がこうした文化にコネクトされ始めると面白いことが起こる。
従来的なポジショントークだらけのクローズドな教育が競争力を失い、
否が応でもパブリックにガチる必要が出てくるようになるのだ。
その先で教育は人を幸せにするか?
正直解らない面も多い。
ただ自分の立場は確実にそっちだろうな。