教育に関わる見えないコスト、誤った平等幻想
前回にちょっと追記。
受験時独学ルートだった個人的な経験として、
こうした内容改訂のオーバーヘッドについては、
手間暇掛けてくれる中高一貫校、
予備校等ならうまく緩衝を敷いてくれるのだろうと思う。
独学は対処のコストがダイレクトに掛かってくる印象だった。
これは社会的には語られない部分で、
勉強しながら格差問題だなと感じていた。
教育というのは、ガチ目なルートを進もうとするなら、
こうした見えにくいコストとの戦いであったりする。
この点を誰よりも理解していたのが佐藤亮子ママだろう。
結構怖い話なのだが、社会的、特にパンピーの間では、
教育の前提的な、見えないコストは無いものと認識されている。
そういった前提条件に於いては誰もが平等で、
そこから個人の努力でスタートを切っていくのだと。
特に日本人はこうした語り口が好きだ。
これは例えば親の所得格差など、
教える側の能力差というセンシティブな問題をヘッジする
教育的なポジショントークに過ぎない。
ダメな教育の典型。
佐藤ママは世間からネガティブリアクションを受けることが多いようだが、
そうした幻想的な教育条件についてはっきりNOと言い、
教育は親もひっくるめた連帯ですよと語るからだろう。
こんな凄いオカンはそうそう居ない。