教育と狭窄
虐待は生活の狭窄で起こると書いた。
狭窄というキーワードは教育にとっての焦点である気がする。
うまく言葉にできない。
教育は、狭窄を解くものでなければならない。
一方で、狭窄を利用する教育場面がある。
個人的に、一般人が教育で狭窄を利用するのは難しいと考える。
権力が腐敗するのと同様で、
相手をコントロールするような快感が出現し、
快感で感覚が麻痺してくるからだ。
しかし、幼少期の狭窄的な教育が、
将来に大きな意味を作ることがある。
スポーツなんかも非常に狭窄的な教育が展開していく。
ここが解らない。
狭窄的な教育の有用性というか。
多分幼少期の体験はどのような過程であれ、
将来的に意味を持つ。
それとは別に、一流や、急激な成長を目指すには
狭窄的な環境が必要であるように思う。
ここでの教育はどうすればいいのだろうか。
なんらかの手段で支配的快感をヘッジすることが必要だ。
おそらくこれは絶対、に近い。
その上で、スーパーバイズすること。
多分ここで、教育=連帯の理論に立ち戻ることができる。
指導側の狭窄が生じないだろうか。
連帯である以上、指導側の一定の狭窄も教育活動だと言えるはず。
カウンセリングで逆転移をきちんと利用するような。
ただ同時に指導側は狭窄をより理解する必要があるな。
メタスーパーバイザーが設置される社会になれば良いと思う。
広義には行政が現在も色々やっているのだろうが、
もっと専門的なものや、IoT志向を含めた広範なもの。
ITで雇用、労働を減らす代わりとして、こういうところに
新たな需要、雇用創出をする社会へ向かうことが好ましい。