教育と狭窄

子供の虐待とAIによる解決

 

虐待は生活の狭窄で起こると書いた。

狭窄というキーワードは教育にとっての焦点である気がする。

うまく言葉にできない。

 

教育は、狭窄を解くものでなければならない。

一方で、狭窄を利用する教育場面がある。

 

個人的に、一般人が教育で狭窄を利用するのは難しいと考える。

権力が腐敗するのと同様で、

相手をコントロールするような快感が出現し、

快感で感覚が麻痺してくるからだ。

 

しかし、幼少期の狭窄的な教育が、

将来に大きな意味を作ることがある。

スポーツなんかも非常に狭窄的な教育が展開していく。

 

ここが解らない。

狭窄的な教育の有用性というか。

 

多分幼少期の体験はどのような過程であれ、

将来的に意味を持つ。

それとは別に、一流や、急激な成長を目指すには

狭窄的な環境が必要であるように思う。

 

ここでの教育はどうすればいいのだろうか。

なんらかの手段で支配的快感をヘッジすることが必要だ。

おそらくこれは絶対、に近い。

その上で、スーパーバイズすること。

多分ここで、教育=連帯の理論に立ち戻ることができる。

 

指導側の狭窄が生じないだろうか。

連帯である以上、指導側の一定の狭窄も教育活動だと言えるはず。

カウンセリングで逆転移をきちんと利用するような。

ただ同時に指導側は狭窄をより理解する必要があるな。

 

メタスーパーバイザーが設置される社会になれば良いと思う。

広義には行政が現在も色々やっているのだろうが、

もっと専門的なものや、IoT志向を含めた広範なもの。

ITで雇用、労働を減らす代わりとして、こういうところに

新たな需要、雇用創出をする社会へ向かうことが好ましい。