魚をさばく動画と子供のコメント

この手の動画には子供のコメントが大量にある。

かわいそう、と言ったコメント多し。

自分も子供の頃、かわいそうという気持ちが先行したタイプだった。

なにか周りの子供よりも深く傷ついていたように思う。

周りの感覚の鈍さにいつも落胆していた。

 

しかし現在、特に思わなくなった。

いつからだろうか。20歳前後でこういう感覚は消えていったのかも。

子供特有の共感覚とかアニミズムから来ているだろうか。

 

このあたりの教育は慣れでいいかなと思う。

命の教育とかで変にドラマチックに仕立て上げるとかはあまり支持しない。

トラウマティックなのは食育的観点で良くないのではないか。

 

自然と生活のわきに生き物を殺めることを見る機会があって、

生命が消えることに悲しみ傷つく一方で、

周りの人間が自然と生き物に感謝している、

みたいにしていけばいいのかなと思う。

 

そういう意味ではYoutubeはかなりいい教育機会なのかも。

リアクションコメントが長期で残るというのも良い。

怯えながら見た魚のさばき方などを

10年後、20年後に、実用的にまた見ることもあるだろうし。

いじめは犯罪。しかし警察に届けない親が多い。

犯罪的ないじめが起こった時、

親や本人は被害届を出さないことが多い。

学校や自治体の相談窓口に相談したりする。

この対応は少しズレているし、率直に言うと無知によるものである。

大体の一般人というのは、警察行政や司法の仕組みが解ってない。

犯罪は捜査機関に届け出る必要がある。

だから必ず学校と警察の両方に届け出るべきなのだ。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

さらに五年になると、「(原発事故の)賠償金をもらっているだろ」と言われ、ゲームセンターや観光地の同市みなとみらい地区で遊ぶ金をせがまれた。多い時には十人に十万円を支払い、一カ月半の間に計約百五十万円に上った。

 

こんな事案は完全な犯罪であり許されるレベルではない。

しかし、この東京新聞の記事に代表されるように、

メディアは警察への通報を重視しない傾向がある。

この記事でも犯罪、違法行為という重大性には全く触れておらず、

学校の不手際のほうに焦点が向かっている。

他の社でも論調は同じ。

第三者委員会が行政批判論調にあったことが原因でもある。

学校にミスがあったことは事実なのだろう。

 

なぜ世論はいじめを語る時、犯罪という言葉を使いたがらないか。

これは多分、子供だから刑法犯として認めるのは教育上良くないとか

そういう意識があるのだろう。

 

代わりにと言ってはなんだが、

メディアは学校・教委の不祥事、隠蔽という物語を志向しているように見える。

また地域、学校、教育、日本の社会問題などとして概念をあやふやにする。

そして最後には「より良い教育」などと言った無難な方向に収束させる。

しかしそれでは被害者の知識不足が解消されず、

いつまで経ってもいじめが解決されない原因となる。

 

学校の捜査力は乏しいが、警察は強い権力を行使できる。

「学校と警察の両方に」しっかりと申請することが必要。

釣りに少しハマる

友達と釣りに行ってから、釣り視点で色々考えるようになった。

釣りは生活にグイグイ入り込んでくる。

釣り人は内陸地に住めないだろうとも思う。

 

3000円くらいのリールを買ってみた。

リール単独でウットリするような感覚がある。

金属に人は魅せられるという類の感覚か。

こういう商売では、商品ラインナップに謎の高級価格帯とか

謎の上乗せ価格があったりする。

時計、ペン、マック、スマホ・・・etc

資本主義は人が金属にウットリすることをうまく折り込んでいる。

リールはその筋の商売でもあるのだろう。

教育行政と市民を繋ぐのは情報のキュレーションとそのベーステクノロジー

カッコつけた題名になってしまったが。

 

大川小のことをずっと考えていたら、

ぼんやり題名のようなことを思った。

それが徐々に確信に近づいてきた。

 

情報不足で、官民に亀裂が入っているように見える。

特に第三者の立場の人々。

 

ブログってのは00年代に現れた

革新的なキュレーションのベースなのだが、

もう一歩進んだ論理の登場が待たれる。

 

というか、国はそういうの専用の人を雇って

教育行政の本当のまとめサイトを作るチームなんかを

構築していいと思うがどうだろうか。

大川小の件と、教員に対する市民に蓄積したヘイト

大川小裁判のネットのリアクションをずっと見ている。

双方ともにカネ観を主軸に論理構築する人多し。

心情的にカネは思うことがあるのだろう。

それに準ずるもので、公務員に対する憎しみからの人も多い。

 

教員になるとして、これからどうすればいいか。

ここでカネ(給料)は難しいから置いといて、

教員が市民に与えるヘイトを減らすことだろう。

一昔前では、市民にヘイトを溜めさせるような

教員の行動が是とされていた。

 

当時はどこの業界もそうだっただろうが。

派閥が強く、協力姿勢が取りにくかった。

 

現在、昔のようなヘイトを与える構造は縮小してきている。

だが残っているところは多いはず。部活とか特に。

 

教員のヘイトを溜めさせる行動は社会的に非難されるべき。

 

また資本主義には官民の間に入り込み、

対立を煽って金儲けするやり方もそう。

ビジネス上損失となるよう社会が非難するべき。

学校・先生を断罪!!の続き

「学校・先生を断罪!!」は、

よくある「自治体や教委」を「学校や教員」と

言ってしまう類のものかと思っていた。

原告の口調を見ていると、どうもちがうようだ。

 

市の「控訴」に市議会も了承 大川小津波訴訟(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

>「(子どもを)守ることのできなかった先生たちの名誉の方が大事なんだ。

>これがきょう、はっきりしました。議員たちには失望しました」

 

かなり引っかかる。

なぜ「先生」なのか?

最近この件を調べていて疲弊しているが

もう少し力を注ぎたい。

 

<大川小訴訟>宮城知事も控訴表明 | 河北新報オンラインニュース

>村井知事は定例記者会見で、

>「判決では津波予見可能性など主張が受け入れられなかった部分がある。

>その場にいた教員を一方的に断罪するのは納得できない」と述べた。

 

断罪というワードは横断幕を意識してだろうか?

 

遺族を扇動している人物はいないだろうか?

誰も得しないような発言が多いように思う。

不信を抱えた人は最悪教師物語を求めるようになり、その構築に情報の空白が狙われる

教育行政の大きな問題は、事後で情報が錯綜すること。

人の間に色んな噂が飛び交う。

学校や教委、大学やメディアや個人とかいろんなとこが情報を小出しにする。

困ったことにそれらが一定のエネルギーを持ち人に影響する。

教育は皆が考えるものだから。

そして隙間に恣意が流れ込み教育不信が増幅する。

 

例えば大川小学校の件でネットをウォッチすると、

学校否定派の意識は隠蔽以外に、

14:46~15:37頃(地震から津波到達)の教職員の行動によく向けられている。

 

1次ソースが曖昧で恣意的な方向に流れやすい箇所。

ここでの感情的学校否定派の典型の教師像は

① ぼーっとしていた

② 権力闘争をはじめた

③ 子供は山に向かおうと泣いていた

というもの。

いずれも元となる別の証言等あり。

それが膨らんでこうなってしまうようだ。

メモを処分した教委による隠蔽疑惑の相乗効果もある。

 

例:

① 当時津波を心配する人が少なかった

→ 教師がぼーっとしていた

→ 何もせず談笑していた

 

② 言い争いを聞いたという証言

→ 権力闘争をはじめた

→ 一部は言うことを聞かずに逃げた、それが生き残りの数人

 

③ 子供は山に向かおうと泣いていた

→ 羽交い締めで引きずり下ろした

 

こういうふうに噂が膨らんでいく傾向がある。

学校不信は、教師のミスを期待する方向にまで

人を変えてしまうように思う。

これは人の不幸を願うスキームに似ている。

 

不信を抱えた人の無意識は、悪の教師物語を構築しようとする。

そこで、情報の空白部分、錯綜部分が狙われる。

人は空白部分に自分の物語を立ててしまう。

 

教育行政は情報の空白を作ってはならない。

情報の空白は社会通念上や行政上、

OKというか、イーブン、しかたないみたいに扱われる。

しかし不信を抱え込みやすい教育行政ではそうならない。

マイナスになるのだ。

 

一応報告書はあるが、

http://www.e-riss.co.jp/oic/_src/sc541/8E968EC08FEE95F182C682E882DC82C682DF.pdf

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo5/012/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/08/07/1350542_01.pdf

きちんとわかりやすく、簡潔に、空白を作らないように、

アクセスしやすい形で、統合的に、いつでも参照できるような

情報を提示する仕組みが必要。

それが不信解決の手がかりになるはず。

ウィキペディア文科省公式版みたいなものだろうか。

ばらばらになってしまった意識を

社会にとって有意義な方へ向けること。