すき家、くら寿司、ビッグエコーの炎上と教育

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くら寿司は刑事・民事で告訴する方針を発表。

抑止はこれしかないのではないかな。

損害賠償請求は手加減するだろう。

 

教育について。

 

なぜこのようなことが起きるか?

 

高校生~大学生ぐらいの年齢で働くということ、

これは社会に初めて出るということ。

 

店員側、として社会に立つあの感覚は不思議だったな。

自分に大きな自信が生まれた。

 

一方で、「自分の裁量で客にサービスを提供する」

という未知の感覚に遭遇する。

 

これって小さな権力なのだ。

初めて社会権力を手にする瞬間。

 

また社会の裏側を知る、という感覚にも遭遇する。

店舗のバックヤードは、

初めて遭遇する社会の裏側なのだ。

 

自分の裁量でサービスを提供できる。

つまり、不正まで行える。

しかも裏側にいるからバレない。

 

あの年齢ってのは、

こうした権力に初めて遭遇する。

 

そして社会にインパクトを与えうる

裁量の範囲について、

自由意志で決定する。

というか、決定に迫られる。

 

炎上動画の件は権力の暴走、

裁量の暴走、

自由意志の暴走なのだ。

 

で、暴走の理由はパターン化していて、

要は権力の誇示と内輪のウケ狙い。

SNSはその加速装置。

 

あの年齢ってのはとにかく面白いことをやって

友人から称賛されたいのだ。

そういう共同幻想に強く拘束されている。

 

ウケる手段として、

また権力の誇示として、

社会への小さな反撃として、

手っ取り早いのが迷惑行為&SNSだ。

 

難しいのは、

この迷惑行為、つまりドーピング使用は

個人の歯止めの掛かり方で決まる。

 

そこはなんというか、個人差が大きい。

正直よく解ってない。

 

歯止めの掛かり方は、良心の個人差に依存する。

 

なぜ良心の個人差が出るのか、よくわからない。

IQと親の愛情量がキーかな、と考える。

 

良心は内的な歯止めである。

刑事・民事での告訴は外的な歯止めだろうな。

 

フェミと教育

ironna.jp

 

ろくでなし子の意見。

彼女は常に別視点だから

話がややこしくなるのだが、

解りやすくなったりもする。

 

記事の問題だが、まとめて言うと

ネトフェミってのは

要は、「男へのトラウマ」のリアクションから

話が始まっている。

 

だから思想の内的なドライブは

「男性性の否定」に軸を持つ。

 

そこに軸があるから、

学問なり、フェミ著名人なり、

そういうので理論や権威を後付けしても

あくまで道具でしかないため、

ポロポロと剥がれ落ちる。

 

だからコンセンサスを伴った基礎論理を持たない。

「結果的に多数派」

という事実によってコンセンサス形成している。

「男へのトラウマ」のリアクションが

 その多数派の主軸ということ。

 

学問とか歴史研究とか

色々あるけど

結局「実需」の軸はそこなのだ。

 

これはミソジニストにも同様に当てはまる。

 

さて、この内部構造は迷路になっている。

 

①トラウマからのリアクションが衝動のドライブを生む

②ネットで騒いで衝動のガス抜き

以下ループ。

 

 

出口は1つ。

「異性に愛される」という

成功体験の積み重ねにだけに出口がある。

 

①と②はどんどん異性を遠ざける。

迷路の奥にはまり、

出口の光が霞んでいく。

 

ここから教育について。

 

彼ら彼女らは

ゾンビ的に布教活動をやる。

誘い込んだ成功体験が

トラウマの傷を舐めるから。

 

この構造に子供を近づけるべきでない。

怖い話だが、

この迷路に子供を引きずりこんでも

犯罪にならない。

 

例えば毒親ってのは

このゾンビスキームで

子供を道連れにすることを試みる。

それが彼ら彼女らの癒やしだから。

 

我々はゾンビ化した

ミソジニーミサンドリー達から

次の世代を守らなければならない。

持続可能な社会のために。

 

それは我々が大人として

愛をどれだけ語れるか、

という文学的な問題だろう。

 

性愛を含めて、

私はどれだけ社会に向けて

愛を語ることができるか。

NHKスペシャル 「“冒険の共有”栗城史多の見果てぬ夢」の感想

栗城という男はあまり好きではないな。

 

Nスペは、それなりには中立に番組制作していた。

それなり、だが。

ネットに責任を押し付けて

NHKやメディアの責任を回避したいようにも見えた。

 

栗城の「冒険の共有」というコンセプトは

非常に合点がいく。

これは映像とITの融合が生み出した魅力だ。

 

早く言えば今で言うYoutuberなのだが、

栗城は00年代から活動しており

先駆者だった。

 

映像とITの融合を登山と絡めることで、

栗城は冒険の共有を進めた。

 

突然、00年代中盤からSNSにバブルが起きた。

そして同時期に現れたyoutubeによって

映像にも突然バブルが起きた。

 

しかも2019年の今になっても

それらのバブルは弾けず拡大している。

つまり栗城のコンセプトは「バブった」のである。

 

バブルを当てて先行者利益を得た栗城は、

とんでもないバブルの渦に巻き込まれた。

いつの間にか

自らが原動力ではなく

渦の原動力で動かされるようになる。

 

そして渦に飲み込まれて命を落とした。

 

バブル云々は私の意見だが

ネットの力で栗城が動かされていったという説については

Nスペや関係者も概ねそう語る。

 

栗城はSNSという巨大装置に飲み込まれたのだろう。

そのようなyoutuberの事例もちらほらある。

 

と、ここまでは栗城に起こった構造について。

んで。

やっぱり私は彼が好きになれない。

 

彼の自我が災いを招いたように見える。

 

登山の達成条件などについて小さな嘘を重ねたこと、

説明を避ける姿勢、

嫌いだと感じる。

 

芝居がかったカメラの前での行動、

山というピュアな存在に強く相反する。

 

私は富士山や地元の山しか登ったことはないし、

登山のことなんて全然解ってない。

実際どういう経済原理で

山が人とリンクしているか解ってない。

 

が、栗城の映像を見る時、

怪しい資本主義が山に絡みつこうとしている、

そういう感覚を覚えてしまうな。

 

栗城の言う「否定という壁」ってのも

マッチポンプじゃないのか。

自分が重ねた小さな嘘や、

外部とコンセンサス調整してこなかったツケ、

それを「否定という壁」に言い換えている。

それを超えるって言われても

何かおかしいぞと思う。

 

「否定という壁を超える」の根本だと思うのだが、

彼は元々練習やってたのか。

なんで登山=一発勝負みたいな

コンセプトで挑んでるのか。

 

本当のプロフェッショナルはそういう

一か八かの挑戦はしない。

プロがそれをやる時は、本当に「賭ける」時だ。

乱発はできない。

連続で一か八かとか変だ。

練習という努力のプロセスを軽視しているとしか思えない。

 

これに関して、花谷というアドバイザー役の

登山家が出演して似たことを言っていた。

 

だが花谷もちょっと変だ。

現地にいたのに、

事前に議論の積み重ねはなかったのか?

 

花谷はプロフェッショナルとして

プロセスを冷静に評価分析して

アドバイスしなかったのか?

 

で、なんで最後、

栗城が選んで結果的に命を落としたルートを

花谷は知らなかったのか?

なんで栗城は伝えず出発したのか?

なんで栗城は花谷の無線に返信しなかったのか?

 

その理由の推察。

Nスペの編集からは伝わりにくいが、

元々チームワークが取れてない印象があった。

 

というか、栗城の人望は危ういように見えた。

カメラのことで栗城がキレてたのもそう。

 

こういうところからも

栗城の人望の弱さ=登山力の無さを読み取ってしまう。

 

そういう細かなことをNスペはきちんと伝えるべきだし

花谷やスタッフにも詰めて聞き取って放送すべきだ。

花谷の物言いはあいまいすぎる。

 

栗城が死んだのは本人の責任もあるが、

メディアがゴリ押した責任もあるだろう。

 

こういうのは責任が分散するから

誰も責任はとらなくていい。

でもメディアは自発的に詰めて総括する義務があるとは思う。

Nスペの姿勢には甘さがある。

 

最後に、登山業界に対してディスる

 

レベル10でラスボス倒しに行こうとする人間を

登山業界の人達はきちんと批判すべきだ。

これ国内で素人がやらかしたら

捜索に税金使われるんだろ、と思う。

 

「お疲れ様」「夢をありがとう」みたいな締め方してる

プロの人たちが多くて苛立った。 

 

登山には一か八かみたいな風潮は、一定あるものだろう。

だが税金によるリスクヘッジは否定すべきだ。

 

栗城は海外で自費だから良いだろうが、

一般人が真似するだろう。

 

それを十分に伝える土壌を、登山業界は作ってない。

 

釣り業界が、海を汚す行為に対して

十分に警告しないのと似ている。

缶蹴りとイジメ

家の近くで子供が遊んでいた。

高鬼やろうとか言ってて、

そんなのもあったなと。

 

あれって永パ入ってゲーム成立しないのでは、と思ったが

ググると無敵時間はカウント制とのこと。

ああ、そうだった。

 

今の子供がやるのかは解らないが、

缶蹴りについて。

 

全員を捕獲とかまず無理。

複数攻撃とか、

微妙な判定でも缶を蹴り飛ばすとか、

とにかく蹴る側が有利。

 

鬼が缶を離れて人を探しに行くのもリスクが大きい。

鬼が複数いればまだマシなのだが。

うちの地域では鬼は基本的に1人だった。 

 

鬼にとっては無理ゲー。

 

缶蹴りの本質は、イジメ遊びだ。

 

最初のジャンケンでの鬼決めで

イジメの空気が流れ始める。

 

いわゆる陰キャが鬼になることを期待されていて、

リンチが始まるあの感覚を共有し出す。

  

蹴る側は徒党を組んでいるので、

自分たちに有利なように空気を持っていく。

その中でルールを細かく破る。

数の論理で無理筋を通す。 

 

鬼を追い詰めて得られる連帯感、

他では代替できない快感だ。

 

最も、缶蹴りはこうなるのを皆解っていたから

遊びとしては人気が無かった。

 

誰かがやろうと言い出して、

流れでそうなっていくあの不穏な空気は忘れられない。

 

快感を得たい一方で、倫理観もあった。

リンチを止める者が出てくる。

あの弱者救済感覚は、

社会システムに通じるところがある。

 

人間にはそういう共栄精神が根底にあるのだろう。

 

ただ個人差が大きく、

徹底的にイジメ抜く主義の者も結構いた。

 

子供の世界はえげつない。

缶蹴りで泣いた友達を何人も見た。

 

あの弱者救済意識の個人差はなんなんだろう。

家の裕福さとかと相関あるのか。

 

センター試験の国語で2009年に缶蹴りの内容が出題されたが、

的外れだなと思った。

 

管理社会側の鬼に蹴りをいれる、という要旨。

 

真逆。

 

この栗原彬という作者、やったことあるのか。

どう考えても、蹴る側=管理社会側だ。

 

管理社会に迷い込んだ弱者(鬼)を

集団で蹴り飛ばす。

 

弱者をボコってリンチを楽しむ。

缶蹴りはそういう遊び。

 

まあ缶蹴りもルールで全く違う遊びに変わるんだけど。

鬼の数を増やすとか、

3回缶を蹴ったら鬼交代とか。

 

社会も同じ。

ルールというのは大切なのだな。

菌扱いについて

いじめ記した君、生きて欲しかった ミュージシャンにメール残し、高校生は命を絶った:朝日新聞デジタル

 

なぜ子供は「菌」概念を持ち、のけ者を作るのだろうか。

 

私も子供の頃、こういう菌の考えを持っていた。

触ったら「伝染る」とか、ミー、バリアとかそういうの。

地球全体バリアとか毎日言ってた。

 

あれはなんだったんだろう。

 

「触られる」ことにすごく敏感だった。

疎外した相手から触られると、

本当に何かが伝染ったような気がした。

 

ミー、バリアも難しい。

要は無敵ということなのだが、

安全地帯への欲求みたいなことだろうか。

「安全に包摂されたい」感覚があった。

 

誰かを疎外することで安心感を得ていたのか?

もっと、内的な異種性への恐怖があったと思うが。

DNAが獲得した生存戦略なのだろうか。

 

大人になると菌扱いしたがる感覚が消えた。

子供特有の、なんらかの未分化感情と言えそう。

教育心理学とかこういうテーマについては書かれていないな。

飛び降り自殺、キャッチの無謀さ

救命:4階から中2飛び降り、対応の女性教諭に当たりけが - 毎日新聞

 

こうした話は感情論で世論が動く。

現場も同じ。

きちんと社会の誰かが否定しないと。

毎日の見出しに「救命」なんて書いてあるが、冗談じゃない。 

 

飛び降りと受け止めというシチュエーションは

世界各地で一定発生している。

高い確率で受け止める側が死亡する。

 

今回の事件も、ドラマチックな内容から

色んなメディアで流れて

ネットは美談として反応が起きている。

 

私は違うと思う。

一定の起こりうる事態であり、

受ける側が死亡する可能性が高いのなら、

ちゃんと「受け止めるべきでない」と社会が警告すべきだ。

メディアはそういう報道姿勢は採っていない。

 

飛び降りが普通に動画で上がる時代になったが、

受け止めるのは無謀である。

 

落下エネルギーは飛び降りる高度に寄るのだろうが、

こんなもん人間が計算できる訳がない。

人は動体のエネルギーを過小評価する

  

閲覧注意。いかに無謀かが解る。

https://www.youtube.com/watch?v=MCoVY1I6M2A

考えるポイントは「計算が狂う」という部分だ。

人ほどの重量を受け止められると脳は誤認してしまう。

昔の教育は選抜、今の教育は全数救済

昔の教育ってのは、選抜主義。

精神論でぶっこんで行って、ダメならダメ、

生存したならオーケーみたいな。

 

今は違う。全員を救済するという前提。

 

発達障害の診断の増加とかこういう筋の話。

体罰論とかも。

前提が遷移してるから基準も遷移する。

 

昔の選抜主義で、ダメだった人はどうなったか?

 

戦前は命を落とすことなんてザラだった。

だから昔の人ってのは、命がけの精神論を持っている。

 

戦後の昭和の負け組はどうか?

死ぬことは激減した。

で、ちゃんと社会のどこかで生存している。

 

教育論で考えたときに

そういう生き方って、失敗とかいう話ではないよな。

 

全数救済の純度が高まっていく。

ネットにそういう影響は今後表出していくのかも。