ハラスメントやイジメは人間的な言葉に言い換えるべき

相変わらずこのブログのハラスメント系の記事が

アクセス数の大きな割合を占める。

1位は円周率、2位は教採、3位はハラスメント。

 

前回の記事で、指導と欲求の結びつきについて触れた。

欲求にはハラスメントの欲求が含まれており、

嫌がらせ欲求を満たそうとする指導者がいるという内容。

社会は言語化を通して意識を共有する必要がある。

 

だが、ハラスメントという言葉は弱いのだ。

いじめという言葉も同じように芯を食っていない。

人間の泥臭い心理が捨象されてしまっている。

またその行為の中の犯罪性を曖昧にしている。

 

ハラスメントとは、人間のどうしようもない

内的な嫌がらせ欲求の表出であり、反社会性や違法性が含まれている。

いじめも同じで、これももっと承認欲求や同一性などといった、

自分の存在意義、生存を掛けた人間性むき出しの駆け引きであり、

その行為には多くの犯罪を含む。

 

我々は衝動を抱える獣臭い人間という視点で、

こうした問題を語らなければならない。

ただ、そうした人間臭い語りは、

一般社会に生きる大人にとって基本的に得にならない。

ハイリスクローリターンであるから、

語らないという方法でヘッジしておくのが大人のルールだ。

もう少し社会がそこに踏み込んで言葉を造って行ければいいのだが。

 

一方で犯罪性、つまり法的な線引の問題がある。

これは人間臭いとかリスクがどうとかの問題ではない。

単にパンピーにとって難しいのだ。

世の大人の大多数が全然解ってない、だから語れない。

被害届と相談の違い、刑事と民事の違い、脅迫と強要の違いなど。

被害者がこうした物事を知らなかったら、

重篤でない犯罪は事実上犯罪を構成しないのである。

 

もちろん法的な線引についても、

社会がきちんと明確に語って行く必要があるのだが、

一般人側が、難しいという単純な理由でこの手の話題を避ける傾向がある。

同時に、法ベースで全処理していくと、

現行の社会では制度がパンクしてしまうので、

体制側や識者が語りたがらない、語れないという問題もある。

 

余談だが、学校というのは常にリソースの限界との戦いである。

社会の建前ではいじめで事件が起こると法、制度ベースで語って行くが、

現場の本音では常にリソース残量の問題だったりするように思う。

話がそれまくったところで終わり。