指導と欲求について
ザ・ノンフィクションというフジの番組が
youtubeに大量に上がってたので飛ばしながら見ていた。
この不自然なドキュメンタリー番組はかなり以前からあったはず。
若者~中年の不幸の切り売りを意識した構成はずっと変わっていないようだ。
人には、若年層の不幸物語を見たいという欲求がある。
これは心理学で言う所のシャドーへのソリューションだろうか。
大多数のパンピーの人生には諦念の壁がドカンとあるもので、
パンピーはそのフィルタから若者を覗いているものだ。
要は自分と同じように他人にも失敗を経験してほしいと。
こうした他人の不幸への希求がグロテスクなのは自明であるので、
彼らはグロさをヘッジしながら欲求を満たす方法を考えるようだ。
残念ながら教育とは、その代表的方法なのだろう。
この番組ではそうした教育構図が多用されており、
指導側に立って不幸物語を甘受できるような制作意図が見える。
指導については、自己の欲求を満たすチャンスだと考える人がいる。
セクハラ、パワハラというのはその類だろう。
美人な女性とか大変だと思う。
こうした欲求は伝わるものだ。
指導という口実によって、
その圧力が欲求であることを表向きヘッジできているよう期待するが、
グロテスクな無意識の滲出は必ず相手に伝わっている。
指導をするに当たっては、できる限り欲求を離れることだろうが、
教育行為自体は欲求的行動であって欲求とは切り離せないのが難しい。
とりあえずこうした指導と欲求の関係について、
深く言語化して共有する社会的なコンセンサスが必要なのだが。
セクハラ、パワハラという言葉がやっと浸透し始めたレベルではあるが、
もっと踏み込む必要があるだろう。