指導要領改訂の社会的コストや教育的コスト

数Bのベクトルが数Cに移動するらしい。

数Cって数3と統合で区分が無くなったんじゃないの?と思ったが、

また新設されるとのこと。

 

こうした区分の入れ替えや順序変更は、

ビジネス的には大歓迎だ。

新しい教材が売れるし、資本主義的に良い循環である。

 

ただ教育的にはどうなのか?

教える側は指導要領に合わせて調整するだろうし、

過去のノウハウを入れ替えたり、新分野は独学するなりといった感じだろう。

 

不思議なことに、改訂で掛かってくる社会的コストは無いことになっている。

自動でアジャストされることになっているというか。

社会が積み上げて来た経験が分断されることになるのだが。

 

で、その教員の適応とか社会的な積み上げとかって

教育的に問題なのか?というところにたどり着く。

私は問題だと考える。

 

この話はそもそも理解されないのでうだうだ書いても仕方ない。

すっとばして簡単に自分の考えをまとめておくと、

教育とは連帯なのであって、知は社会が受け継いでいかなければならない。

単元や内容や細かい機微を

できるだけ社会が同じベースの上で共有していくことで、

教育の連帯が強化される。

それを分断していくと、社会の1人1人が得た失敗や成功の記憶が

有機性を持たなくなってつながりが失われてしまう。

共通言語が毀損されていくのだ。

 

その共通言語とやらは社会の財産なのか?私の意見ではYesである。

だから本当は教科書も決定版中の決定版みたいなのを

社会が作って共有したほうがいい。

日本人として共有して改善していく集合知ベースが必要なのだが、

まったく理解されていないというか。

ウィキペディアや民間サービス、個人ブログ等に自然と丸投げする形になっている。