不登校と責任

不登校新聞という教育系にしては珍しい有料サイトに登録して記事を読んでいた。

不登校新聞

  

一貫する論調がいくつか見られる。

例えば、責任の所在の曖昧さだろう。

特に自己責任論については強く否定的な立場を取っているように見える。

 

どうせ不登校ビジネスなんだし、

自己責任なんて一切語らずポジショントーク

ガンガン学校に責任押し付けるビジネス展開だろと普通思うが、

そう簡単な構造ではない。

 

不登校児童生徒への支援の在り方について(通知):文部科学省

 

不登校とは,多様な要因・背景により,結果として不登校状態になっているということであり,その行為を「問題行動」と判断してはならない。 

 我が国の行政において、不登校は問題行動として扱われないと明記されている。

 

いじめ,暴力行為等問題行動を許さない学校づくり

一方でいじめ、暴力行為は問題行動とされる。

 

冷静に考えれば、これは教育行政の責任の範囲が、

法ベースに基づく、小さな(リミテッドな)行政であることの確認だろう。

問題と定義されると、そのポイントに職責としてのソリューションが求められる。

行政が不登校を問題視していることはしているが、極めて強く限定が入る。

大胆な定義であるように思うが、

職責の線引の明確化自体については個人的にポジティブな評価をする。

 

行政、特に教育系は職責の線引をあいまいにして

ジェネラルに責任を引受けすぎた。

その行政の過多な職責を利用して、自己責任をヘッジするガス抜きスキームが、

メディア等によって濫用されてきた。

 

そういう流れを経て今なのだが、

不登校が問題行動でないとすれば、不登校はそもそも不利益なのだろうか。

また一体、誰の責任を問うべきものなのだろうか。

 

文科省不登校を不利益と扱っている。ただし論調は弱い。

 不登校という状況が継続し,結果として十分な支援が受けられない状況が継続することは,自己肯定感の低下を招くなど,本人の進路や社会的支援のために望ましいことではない

 

問題は責任である。 

結論を言うと、不登校についてはいじめ等の違法行為が関係しない限り、

責任の所在はどこにも無いことになっている。

 

文科省見解と併せて踏み込んでいうと、

自己責任論は社会教育的には破棄されたに近いのが現状だ。

自己責任論を語るリスクだけがある状態。

 

 

一方で学校責任論も縮小しつつある。

上述したような責任のヘッジスキームによって、

過去にメディアが教育行政批判の代弁者となるような動きがあったが、

現在はこれも撤退気味である。

その空席を狙うのがネット系の新興メディアや不登校ビジネスなのだろうか。

 

不登校の責任というのは宙に浮いた状態だ。

ということは結果的には、暗黙的な自己責任とか、

家庭の責任問題へと収斂するのだろう。

 

1点注意すべき点として、不登校は金になるというのがある。

見えにくいのだが、広告等、ネットの動向を見るに、

不登校ビジネスマーケットにある程度流動性が観察できる。

つまり、ポジショントーク全開の分野ということだ。

実際にこうしたテーマでググると目も当てられないサイトが沢山ヒットする。